ヒーラーです
ええと、私はヒーラーなのであります。
ヒーラーと名乗っているからにはヒーリングというものができます。
ヒーリングとは厳密に言えば〈 癒し 〉という意味でありますから、別に直接的な体のトリートメント施術だけでなく、心の癒し、カウンセリングなども含まれる訳です。
まあ心やメンタルなどへのアプローチもできれば、これは素晴らしいヒーラーと言える訳ですから、もちろん私もそう言った方向の学びを沢山しております。
けれど、私は実際的なフィジカル、肉体面のヒーリングが本当に得意なんですね〜
一般的な腰痛や膝痛、様々な疼痛や慢性疾患などに、私が行うヒーリングは本当に良く効きます。
〈 氣流パワーエナジーヒーリング 〉 これはハンドパワーを用いたヒーリングで、見た目は世間で多く行われている手当て的なヒーリングと同じです。
それでは一体何が違うのかと言うと、ヒーリングパワーの開発方法の違いと言いますか、ヒーリングパワーの取り入れ方法が私が発見したオリジナルなもので、これは誰でも同じ手順を踏めば全く同じヒーリングパワーを得られると思います。
私はかなり以前にレイキを学びましたし、シータヒーリングや、その他の様々なヒーリング技法を学んできました。
そして最近になってようやく、誰でも皆が同じようなヒーリングパワーを得られるテクニックを完成させる事ができた気がします。
今後このヒーリングエナジーワークを普及させる為に、少しずつですが活動をしていきたいと考えています。
病める人々に手を差し伸べる、
本当の意味での〈 手当て 〉というものを今後も追求していきたいと思います。
記 ヒーラー坊主K/.2017
挑戦
新年初ブログです。
私はヒーリングを行っておりまして、《 マインドワークヒーリング 》というオリジナルのヒーリングを得意としております。
これは相手に全く触れる事なく、イメージと秘文や真言を使って体を瞬間的に変えてしまうという面白いテクニックです。
このテクニックの特徴は人間の体のエネルギーである経絡、五行、チャクラのバランスを瞬時に整える事ができるという事です。
世の中のヒーリングやヒーラーを色々と調べても、チャクラのバランスを整えるという事は行っている方は多いですが、経絡や五行を整えるというのはあまり聞きませんね。
そして五行や経絡だけでなく自律神経の調整も行っています。
これらを上手く調整する事で様々な疾病に効果が現れるのだと思います。
さて、この遠隔ヒーリングを使って今年はある方のヒーリングを行ってみようと決心いたしました。
現代医学ではかなり絶望的な病状ですが、人間には秘めたる治癒力が存在するので可能性は全く無くはないと思います。
何事もやってみなければ分からない、難しい事に挑戦する事でこのヒーリングテクニックを更に進化させて病に苦しむ人々のお役に立ちたいと考えています。
ヒーラー坊主K/.2017
祈りと念仏
このブログは人様に読んでいただく事を目的として書いているのではありません。
何と言いますか、書きたいと思う事をただツラツラと気分に任せて書いております。
別にブログを持ってますので、その為の下書き的なブログなので、言ってみれば頭の整理というか、まあそんな感じです。
書きたい事を好きな時に書く、だからテーマも内容も毎回違ったものになったりして統一感はないかも知れませんが、そこはどうぞご容赦の程を。
そんなで今日のテーマは「祈りと念仏」です。
先のブログ記事の中で井上洋司神父の事を書かせていただきました。
井上洋司神父は私が20代の頃に、精神的、宗教的に実に大きな影響を受けた方ですが、井上神父が晩年辿りついた境地は「南無の心に生きる」という事でした。
イエス・キリストの説く〈愛〉、そして愛の神に自らの弱さや醜さをすべて預けて、全託して生きるという事を、「南無アッバ」というとても短い祈りに結実させておられました。
〈アッバ〉というのはユダヤ地方でパパとか父ちゃんと言った、子供が素直に親に甘える時の言葉で、イエスが神に祈る時に使った言葉だと言われています。
〈南無〉というのは「帰依する」という意味で、サンスクリット語のナマスが語源だとされています。
南無アッバ、本当に砕いて意訳してしまうと「パパお願い!」といった感じですかね。
キリスト教の教会でよく唱えられる「天にまします我らの父よ」というような仰々しい言葉とはかなり違い、子供が親を全く疑う事なく信頼するように、神様に本当に信頼をする、全託するという心の現れなのだと思います。
井上神父がアッバに南無を付けたのは、もちろん南無阿弥陀仏という念仏が基になっています。
ヨーロッパの長きキリスト教文化の重みというものに散々苦しんだ神父が、辿りついたところ、それは日本の仏教、法然上人の思想でした。
仏教や宗教思想に詳しい方はご存知のように、法然上人は日本における偉大な宗教改革者でありました。
様々な難行、苦行を行っても悟りに程遠い人間の業というもの。
その深き業を見つめ続け、貧しく、学も無い人々を如何に救いに導くか。
法然上人が目指したもの、それは貧しさや病苦、己の弱さ醜さに喘ぎ苦しむ人々の救い、〈弱者の救い〉というものでした。
比叡山で天才と言われ、学問と修行に励む法然上人はある時に比叡山を出て街中に入ります。
若き日に街中で上人が見たもの、それは日々生きる事のみが精一杯という、貧しさや病に苦しむ下層の人々の姿でした。
そのような人々と間近に出会い、上人の心に強い疑問が生じます。
「これらの人々は学も無く貧しい、そして仏道に入る機縁も無い。そんな日々を苦しんで生きるだけの人々に、果たしてみ仏の救いはもたらされるのか?」
比叡山の一角に籠り、それから長きにわたり法然上人と膨大な量の仏教経典〈大蔵経〉との格闘が始まります。
来る日も来る日も膨大な量の経典を必死な思いで読み解く上人。
「あるはずだ、必ず人々を救いに導く道が、」
そして法然上人はようやく発見します。
〈 南無阿弥陀仏 〉
ただ阿弥陀仏、み仏の名を呼びひたすら帰依するだけでよい。
「私にすがりなさい。私はどんな罪深き者、業の深い者でも救ってあげるのだから。」
上人の心に静かな光が広がってゆきました。
そしてそれは、日本の仏教界に新たな光がもたらされた大いなる瞬間でした。
記 ヒーラー坊主K/.2016
読書の秋
最近は少し時間的な余裕ができてきたので、久しぶりに読書などしております。
色んな本をパラパラと読んではいるのですが、今熱心に読んでいるのは、石牟礼道子さんの「苦海浄土」という本です。
NHKで紹介されていて知ったのですが、水俣病と戦いながら、その絶望的とも言える病苦の中で、人間としての生きる意味を、そして魂の救いをテーマとしてる実に重い本でありまして、正直「これはエラい本を手に取ってしまったなあ〜」と思いましたが、読み始めてしまったので一気に読み進めてしまおうと思っています。
しかし、やはり人間の生と死、生きる意味を問うような書物に惹かれてしまうのは、もう個人的な趣味、志向としてしょうがないですね。
私も人生の秋という時期にさしかかり、生きる意味という事を改めて深く考えてしまう今日この頃です。
記 ヒーラー坊主K/.2016
南無の心に生きる
アッバ、アッバ、南無アッバ
イエスさまにつきそわれ
生きとし生けるものと手を繋ぎ
おみ風さまにつつまれて
アッバ、アッバ、南無アッバ
私が今一番熱心に唱えてる祈りです。
前回のブログに書いた井上神父神父が作られた祈りですが、詩というか祈りというか、とても暖かい言葉ですね。
仏教の浄土系の祖師である法然上人、親鸞聖人は、あの膨大な仏教思想を《南無阿弥陀仏》という本当に短い唱え言葉に凝縮をされましたが、井上洋治神父も、長きに渡る西洋キリスト教の膨大な思想、歴史を《南無アッバ》という、あまりにも短い祈りに凝縮されました。
アッバというのは、イエスの生きておられたユダヤ地方のアラム語で、パパとか、おとうちゃんという意味だそうです。
イエスキリストは神様に祈りを捧げる際に、このアッバという言葉を常に使われていたと言うことです。
つまりイエスさまにとって、神は《パパ》と言える程の本当に甘えながら飛び込んでいける暖かい存在だったということでしょう。
自我、エゴだらけの自分の心を、アッバという大いなる存在に丸ごと開け渡し、プネウマ、ギリシャ語で《風、聖霊》の働きの場所となること。
南無アッバの祈りには、そのような井上神父の思いが凝縮されています。
長年自我、エゴに苦しんできた私にとって、この南無アッバの祈りは、何か本当に心の安らぎになってきています。
街を吹き抜ける風も少し冷たさを感じるようになり、その風は季節の変わり目を知らせてくれます。
来年50歳になる私も、人生における季節の変わり目というところに立っているのかも知れません。
常に移り行く私たちの人生にも、聖霊の息吹きであるプネウマ《風》は優しく、暖かく神様の想いを私たちに伝えてくれます。
自然の中で、街中で、私は神様であるアッバに想いを馳せます。
この祈りを届けてくれた井上神父に感謝を捧げながら、天を仰ぎ、そして祈ります。
アッバ、私は常にあなたのみ心と共にあります。
アッバ、アッバ、南無アッバ
記 ヒーラー坊主K/.2016